朝の連続テレビ小説『風、薫る』。
先週から今日にかけての放送を見て、思わず胸が締め付けられ、涙がこぼれてしまった方も多いのではないでしょうか。

仲間由紀恵さん演じる、元武家のお姫様であり公爵夫人。彼女が乳がんを患い、「胸のなくなった私が、主人のそばにいてもよいのだろうか」「私はもういい」と絶望し、生きたい気持ちと捨て鉢な気持ちの間で激しく葛藤する姿――。

実は、あの涙と心の揺れは、私にとって決して他人事ではありませんでした。

私自身、2024年に乳がんを患い、部分切除の手術を受けた当事者です。現在は正しい知識を伝えるために、ピンクリボンアドバイザー(初級)の資格も取得しました。

正直なところ、ドラマを見ていても、当時の痛みが心の傷に触れるようで胸が締め付けられる思いでした。ですが、画面の向こうで苦しむ夫人の姿を見たとき、「この経験と知識を持つ私が書かなくて、誰が書くのか」という強い気持ちが湧き上がり、急遽この記事を書く決意をしたのです。

立場や時代は違えど、告知された瞬間の恐怖や、女性としてのアイデンティティが揺らぐ苦しみは、100年前も現代も驚くほど地続きでつながっています。

劇中で医師が語った「腫瘍は2.5センチ。周囲の組織も全部取ったからもう大丈夫」という言葉。
現代の乳がんサバイバーであり、ピンクリボンアドバイザーでもある私の目には、このセリフが当時の最先端医療のリアルを物語っているように映りました。マンモグラフィも乳腺エコーもないあの時代、一体どうやって乳がんを診断し、治療していたのでしょうか?

今回は、ドラマの背景にある明治・大正期の乳がん医療の歴史を紐解きながら、選択肢が増えた現代だからこそ私たちが直面する迷い、私を救ってくれた夫の言葉、そしてコロナ禍という「時代」に翻弄された私の家族の物語について、あふれる想いを綴りたいと思います。

朝ドラ『風、薫る』公爵夫人の涙に共感した、私自身の乳がん経験

テレビの画面を見つめながら、当時の記憶が鮮烈に蘇り、涙が止まらなくなりました。

「生きたい」と強く願う反面、女性としての形が変わることへの恐怖、そして「もう私の人生なんて、どうでもいいや」と投げやりになってしまう、あの底知れない暗闇。あの葛藤と孤独は、100年前の明治を生きる公爵夫人も、現代を生きる私も、全く同じでした。

悲しい過去を思い出す恐さよりも、「今、同じ病気や不安と戦っている誰かの光になりたい、この記事を届けたい」という決意が勝り、今こうしてパソコンに向かっています。

時代や身分が違えど、乳がんという病を前にした一人の女性の「命の重さ」と「心の揺れ」は、確実に同じです。だからこそ、当事者である私の視点から、この物語の背景にある医療の歴史をもう少し深く紐解いてみたいと思います。

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【記事タイトル】|元フィットネストレーナー × 乳がんサバイバーsanaのブログ|Lavender Bloom

マンモもエコーもない時代、どうやって乳がんを診断・治療していたのか?

ドラマを見ていて、医療従事者ではない方も「あれ?」と疑問に思ったポイントがいくつかあったのではないでしょうか。 マンモグラフィも乳腺エコーもないあの時代に、どうやってがんを見つけ、治療していたのか。ピンクリボンアドバイザーとして学んだ知識や、日本乳癌学会などの歴史的な記録をもとに、当時の医療の実態を分かりやすく紐解いてみます。

古いカルテと万年筆、その上に置かれたシンプルなピンクリボンの知的なイメージ画像

1. 確定診断は「医師の視診と触診」がすべてだった

現代では、画像検査や細胞を取る病理組織検査(生検)を経て確定診断が下されますが、明治・大正期は医師の「目(視診)」と「手(触診)」がすべてでした。

乳がんは体の表面に近い場所にできるため、内臓のがんに比べると、実は医学の歴史上(古くは古代エジプトのパピルスや、江戸時代の華岡青洲による世界初の麻酔手術の記録などからも)大昔から認識されやすい病気でした。当時の経験豊富な名医は、しこりの独特の硬さ、根を張って周囲の組織に張り付いているような固定感、皮膚のひきつれや乳頭の陥没などから「これは癌(がん)である」と見抜いていたのです。

2. 当時「ステージ」という概念はあった?「2.5センチ」のリアル

現代のような「ステージ1〜4」という明確な国際分類(TNM分類など)が定まったのは、20世紀後半(1950年代以降)になってからのことです。当時は「ステージ」という言葉こそありませんでしたが、「初期」「中期」「末期(手遅れ)」という大まかな進行度の概念はありました。

ドラマの中で医師が言った「2.5センチ」という大きさ。これは、現代の基準(乳癌取扱い規約など)で言えば「ステージ2」にあたります。手で触って完全にしこりだと分かる大きさです。 医師の「周囲の組織を大きく取ったから大丈夫」という言葉は、「まだ全身に広がりきる前の段階で、目に見える悪い部分を丸ごと切り取れたから安心してください」という意味になります。

3. 「周囲の組織を全部取る」は、当時の最先端「ハルステッド手術」

「昔はリンパ節転移の考え方がなかったの?」と思われるかもしれませんが、実はすでにありました。

19世紀末(1894年)、アメリカの外科医ウィリアム・ハルステッド医師によって「乳がんは周囲の筋肉(大胸筋・小胸筋)や、脇の下のリンパ節(腋窩リンパ節)へと順番に、一方向へ広がっていく」という理論に基づいた「乳がん根治手術(ハルステッド手術)」が確立されていました。

日本でも明治後期から大正・昭和にかけて、この術式が広く標準治療として行われていたことが、日本の乳がん手術の歴史に記録されています。劇中の公爵夫人が受けられるような最高峰の医療現場では、まさにこの胸の筋肉や脇のリンパ節までをゴソッと一塊にして大きく切除する、当時の命がけの最先端手術が行われていたと考えられます。
(※当時の手術の変遷については、日本乳癌学会の記録などを参考にしています。)

【参考文献・参考リンク】
一般社団法人 日本乳癌学会「市民の皆様へ(理事長挨拶)」 (現在の乳がん治療の選択肢の広がりや、検診の大切さについて、学会のトップである石田孝宣理事長が分かりやすく発信されている公式メッセージです)
乳がん手術の歴史(東京ブレストクリニック) (19世紀末のハルステッド手術から、現代の温存手術(部分切除)にいたるまでの変遷が分かりやすく解説されている専門クリニックのページです)

【現代の葛藤】選択肢が増えたからこその迷いと、心を救ってくれた夫の言葉

ドラマの時代は、命を救うために「筋肉もリンパ節も根こそぎ大きく切り取る」しか選択肢がなかった時代でした。

それに比べて、現代の医療は目覚ましい進歩を遂げています。 部分切除か全摘か、抗がん剤治療をするかしないか、放射線治療をするかしないか、さらには遺伝子検査をするかしないか……。医療技術や乳がんの治療法研究が進んだおかげで、私たちは多くの選択肢を持てるようになりました。

しかし、選択肢の幅が広がったということは、同時に「どの治療を自分で選択すべきか」という、猛烈な迷いと新たな葛藤が生まれるということでもあります。

ドラマの中で、公爵夫人が「胸のなくなった私が主人のそばにいてもよいのだろうか」「私はもういい」と絶望する場面がありました。 画面の前の私は、その言葉に「すごくよく分かる……」と激しく胸を痛めていました。なぜなら、2024年に乳がんを患った私自身も、全く同じことを考えたからです。

「生きたい」と願う一方で、女性としての形が変わっていく恐怖に心が追いつかず、「もう私の人生なんて、どうでもいいや」と捨鉢(すてばち)な気持ちになってしまう。そんな底知れない暗闇を、私も経験しました。

そんな絶望の淵にいた私を救い、前を向かせてくれたのは、夫の言葉でした。

「どんな選択をしても俺はサポートするから」

この一言が、どれほど私の張り詰めた心を解きほぐし、救ってくれたか分かりません。「正解」のない選択を迫られ、孤独に震えていた私に、夫は「一人じゃないんだ、どう転んでも大丈夫なんだ」という絶対的な安心感をくれたのです。

医療が進歩して選択肢が増えた現代だからこそ、患者が背負う心の負担もまた形を変えて存在しています。だからこそ、医療技術の進歩と同じくらい、あるいはそれ以上に、家族や周囲の温かいサポートと言葉が、患者の命を繋ぐために必要なのだと痛感しています。

親戚への「他言無用」。コロナ禍に翻弄された従姉妹への想いと私の選択

私は自分が乳がんになった際、両親と妹には「がんになり、手術をすることになった」という事実だけを伝えました。しかし同時に、一つだけ強い約束をしてもらったのです。

「親戚には、絶対に言わないでほしい。他言無用にしてね」

お見舞いも必要ないと言い切り、叔母や従姉妹(いとこ)をはじめとする親戚一同に徹底して隠し通したのには、ある深い理由がありました。

実は、私の母方の従姉妹も、少し前に乳がんを罹患し、必死に治療を続けていたのです。彼女にがんが見つかったのは、世界中がパニックに陥っていたコロナ禍の真っ只中でした。当時は「早期発見」だったそうです。

しかし、時が時でした。 「急を要さない手術は、感染拡大予防の観点から控えるように」

そんな過酷な医療体制の制限に、彼女は正面から翻弄されてしまいました。早く手術をして安心したいはずなのに、手術ができる日を信じて待ち続けた期間は、なんと「2年」にも及んだのです。 ようやく手術を受けられたとき、彼女の乳がんは、もはや早期発見とは言えない段階までかなり進行してしまっていました。

そんな折に、今度は私が乳がんに罹患しました。現代の通常の医療体制に戻っていた私は、あれよあれよという間に確定診断まで進み、すぐに手術の日程も決まったのです。

スムーズに治療が進むありがたさを噛み締める一方で、私の胸は激しく痛みました。 「もし、このことを手術を2年も待たされた従姉妹や、その姿を隣で見守り続けてきた叔母が知ったら、どれほど複雑で、やりきれない思いをさせてしまうだろう」

また、私にはもう一つ、遺伝的な(家族性乳がんの)可能性を考えて「妹にだけは事実を伝えておきたい」という想いもありました。だからこそ両親と妹にはがんを告げましたが、これ以上余計な心配や負担をかけないよう、詳しいステージや、今も続いている「10年間のホルモン療法」といった具体的な治療内容については、今でも一切話していません。

闘病中、心も体もギリギリの中で、周囲との付き合い方に悩むこともありました。 妹の嫁ぎ先はとても贈り物好きな方々で、たびたびお気遣いをいただいていたのですが、闘病中の身にとっては、その善意へのお返しや丁寧な対応を考えることすら、時に大きな負担となってのしかかってきました。お見舞いを断り、親戚に病状を伏せたのは、そうした周囲への気遣いで自分をすり減らさないための、自分を守るための選択でもあったのです。

まとめ:時代が変わっても、変わらない「患者の想い」と命の尊さ

明治の公爵夫人、コロナ禍に翻弄された私の従姉妹、そして2024年に罹患した私。

生きた時代も、置かれた環境も、受けた医療技術もそれぞれ全く異なります。 昔は筋肉まで大きく切り取るしか手がなかった治療が、現代の私のように「部分切除」を選べるようになり、さらに薬物療法や遺伝医療まで劇的に進化しました。

しかし、どれだけ医療が進歩し、選択肢が増えたとしても、がんを告知された瞬間の底知れない恐怖や、女性としての葛藤、そして家族を思いやるがゆえの心の揺れは、100年前から現代まで、驚くほど地続きでつながっています。

朝ドラ『風、薫る』の公爵夫人の涙は、決して遠い過去の物語ではありません。今この瞬間も、同じように悩み、選択を迫られている多くの患者さんたちの姿そのものです。

私を暗闇から救ってくれた夫の「どんな選択をしてもサポートする」という言葉のように、時代が変わっても人を救うのは、やはり大切な人の寄り添いなのだと強く感じます。

昔は手で触れて初めて分かった2.5センチのしこり。現代の私たちは、マンモグラフィや乳腺エコーによって、手では触れない数ミリの段階で見つけられる恩恵(検診)を受け取ることができます。

ピンクリボンアドバイザーとして、そして一人の当事者として、この進歩への感謝を忘れず、これからも自分の体と、大切な人の命に丁寧に向き合っていきたいと思います。

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